野火止用水〜平林寺

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 野火止用水〜平林寺

2010-01-21 

 

自宅(狛江市9:20)〜調布飛行場9:56)〜武蔵野の森公園(調布市10:20)〜野川公園(調布市・三鷹市)〜武蔵野公園
(小金井市)〜玉川上水の関野橋(小金井市)〜野火止用水分水地(東大和市
11:22)〜恩多野火止水車苑(東村山市12:11
〜平林寺前たけ山で昼食

〜平林寺(埼玉県新座市14::20)〜黒目川(東久留米市)〜落合川(東久留米市15:42)〜小金井街道(東久留米市前沢)
〜所沢街道〜田無(西東京市)武蔵境駅(武蔵野市)〜深代寺横の五差路〜柴崎(三鷹市・調布市)〜自宅(狛江市
17:40
走行73キロ

GoogIe MAP(ここをクリックしてね)

 

★小金井街道に差し掛かる頃から強風が吹き此れから明日にかけてのお天気が気になる。
 
天気予報よると明日は日中の最高気温8度との事です。

★調布飛行場

昭和13年(1938)に、東京府北多摩郡調布町、三鷹村、多摩村(府中市)にる
約50万坪の土地に計画され、畑・家屋・寺など半強制的に買収され造られた。

陸軍飛行部隊が配備された。首都防衛のため、戦闘機「飛燕」が配備され日本本土空襲の為飛来する米軍のB29爆撃機攻撃で飛行場や近くの高射砲陣地が爆撃され多くの傷者をだした。現在では、伊豆大島・新島・神津島への空の玄関口として小型機が運行されています。

調布飛行場内にはカフエもあり憩いの場所として近年は注目されている。

調布飛行場の周辺には、戦時中に使用していた門柱・掩体壕
(えんたいごう)・高射砲台座などが、市民団体の努力で残されています。また周辺は武蔵野の森公園とし再整備されつつあり隣接地には味の素スタジアムがある。

新選組・局長・近藤家「」
天然理心流・近藤家に養子に
道場は今も健在しています

新選組・局長


近藤 勇「宮川生家」跡
野川公園の冬景色です。
武蔵野路漂う雪吊りと落葉樹木です
野川公園の冬景色です。
武蔵野路漂う落葉と落葉樹木です
玉川上水の清流
この水は昭島市にある東京都流域下水道
「多摩川上流処理場」から再生水です。
此れによって水のなくなった「玉川上水」に清流が甦りた
我が国の清流復活の先駆として全国の
「甦る水100選に選ばれました。
    野火止用水の武蔵野路
恩田野火止用水水車苑」             「東村山市」
 地元の方の話では
 40〜50年前にはここは水辺の池あり
 ホタルが多数生殖していたそうです。
何の木か分かりませんが大木の根が、    
野火止用水またがり壮観です。
    
 4〜5年前にはガードレールは無く、車衝突後が生ナマしいです。今より壮観でしたよ
 平林寺附近には食事処は2軒しか有りません
★1軒は平林寺正門前・・ここのお店感じ悪いです
 母娘で接待しています。
 「おみやげ店と食事処同じです」
★後の一店写真のごとく食事処専門店です。
 平林寺より100メートル離れています。
 グループの方々にはこのお店をお勧めします。

 写真を参考して下さい。
かもなんうどん
1200円
お汁は辛め
   

平林寺は関東地方で大変格式の高い、臨済宗妙心派の歴史ある有名な寺院の一つです。今から約600年前、大田備中守春桂澤大居士によって埼玉県岩槻市に創建されました。

その後徳川時代に川越城主松平伊豆守信綱公がこの深座市野火止に移し今日のような平林寺に建立されました。城域一帯は野火止塚や松平家の墓所などの文化財を初め、樹木が多くおもかげをもっともよく残し天然記念物に指定されています。

平林寺には茅葺屋根の建物沢山有ります。
いま正門は工事中です。
松平家・皇室の関係者のみ専用道です
正面に松平信綱一族の墓があります。
驚く程の大きな墓地です
    平林寺には茅葺屋根の建物沢山有ります

読 経場です。

一般の方も会員になれば参加できる様です
★平林寺は平成天皇が武蔵野の景色がお好きでときたま、お忍びで行かれるところです。昨年も秋の紅葉狩りに来られたとの事です
昼食は京都から食材を持ち込み京都から来た調理師10名が腕をふるい、
奥座敷でめしあがったそうです。







落合川と黒目川の合流点
左・・・黒目川
右・・・落合川

          黒目川の下流は新河岸側〜荒川(?水門)と続きます。

東久留米市の名所の一つである
落合川は「かるがもの」の生殖地です
ここは東久留米市の名所の一つです。
落合川と南沢湧水郡附近です

 

★松平伊豆守信綱公

「知恵伊豆」と称された松平伊豆守信綱は幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男として、慶長元年(1596)に生まれた。幼名を長四郎といい、
同年6年久綱の弟で徳川家一門である「長沢松平」相続していた松平正綱の養子となり、同9年7月に家光が誕生すると、
信綱は召し出されて家光附きの小姓となった。

元和6年(1624)養父である正綱に実子が生まれたので信綱は別家し、「大河内松平」を興した。同年五百石、同9年小姓組番頭となり、
加増され八百石を知行。同年7月、家光の上洛に供奉し、伏見において家光が三代将軍となると、信綱は従五位下伊豆守に叙任した。

寛永元年(1624)信綱は二千石となり、同4年には一挙に八千石の加増をうけて一万石を領した。さらに同7年には五千石を加増されている。
この間、信綱の忠義な奉公ぶりと才智は、家光の絶大な信頼得ていた。家光政権の確立の中で、同年11月に信綱は老中並となり、
阿部忠秋・堀田正盛らとともに6人衆に任ぜられ、幕政に参画する。ついで10年5月、信綱は一万五千石加増の上、
武蔵忍城主となり三万石を領し、さらに12年11月には忠秋・正盛とともに老中となった。
こうして信綱は旗本から、
幕閣かつ一国一城の主として出世を遂げたのである。
寛永14年10月九州島原の乱が起こり、信綱が将として派遣され鎮定した。
その功によって同16年川越城に転封され、三万石の加増をうけ六万石を領した。
同年20年、侍従に進み、正保4年(1647)1万五千石を加増され、その所領は合わせて七万五千石となった。
信綱は三代将軍家光、四代将軍家綱の老中として活躍し、幕府初期政治の基礎を固め、古今の名相とも駆われる一方、
郷土の発展につくした功績も大きく、のちの小江戸と称される川越の基礎をつくり、新河岸川の舟運をおこしたり、
川越街道の整備なども行っている。

また、慶応4年(1655)には、玉川上水から野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。
信綱は、この野火止台地開発」とともに所領の野火止村に、菩提寺である平林寺を岩槻から移転させることを切望したが果たせず、
寛文2年(1662)3月16日に逝去した。享年67歳。法名は、松林院殿乾徳全梁大居士。

はじめ、岩槻の平林寺に埋葬されたが、子の輝綱が父信綱の遺命を守り、翌3年に平林寺の伽藍および墓石にいたるまで、
現在地に移建したため、改葬されたものである。

★平林寺は平成天皇が武蔵野の景色が好きでたまにお忍びで行かれる所です・去年の秋の紅葉狩りにもお見受け致しました。
昼食は京都から持ち込み調理師10名奥座敷で召しあがったそうです。


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